‘パレードの中 君は踊る 僕はもう なにも 君に’

the cabs その完成された美について

 

鋭くて柔らかなメロディー、その隙間の歌詞、そして対峙するリズム。

一見とっつきにくいその独自の変拍子は、とって付けたように捻り出したものではなく、彼ら自身から滲んでくるもの。

ギターとドラムを初めて合わせた高校の頃から、そのイメージ、世界観は全く変わっていない。バンドにありがちな「初期の曲」という括りが必要なく、どの曲も本当に純度が高い。その世界は濃密だ。

 

 

絵画の海に溺れて行く

ぼくらいつも 間違えようとした / anschluss

 

 

一聴しただけで俯瞰出来る散らばった世界観は、聴き込むごとに、色、温度、空気、更には路地や家、そしてそこに住んでいる住人の呼吸まで聞こえてくるようだ。
同時に不可解で無作為。つなぎ合わせただけの絵のような脈絡のないリズムや歌詞の羅列、その難解に思える楽曲をなんとか紐解けば、the cabsの鼓動がすぐそこに聞こえる。ように思えた。その先に彼らの意図があると思っていた。

 

彼らの作品の側面は断片でしかない、断片だからこそ伝わる風景。

 

 

1枚の、ある時は何枚かの絵が目の前をヒラヒラと舞っているようだ。
目を凝らし、注視すればその風景が見えるかもしれない。見えたと思ったら消え、また現れる。実態がないものを掴もうとしている感覚だ。その何かを掴もうと伸ばした手は、幾度も空を切る。「ああ、いったいどうなってるんだろう」と首を傾げ、時には目を細め凝らし、理解の触手を伸ばすが、やはりそこにはなにもない。


彼らの表現が逸材なのは、'伸ばした手が空を切る'ことにも意味を見出していることだ。


いつかその行為に飽き、または疲れ、呆然とし、絵が舞っている景色そのものを傍観することになったとき。

リスナーはやっと聴くことが出来る。


空を切っていた手を、彼らは裏切らない。

その回数が多いほど驚くはずだ。

解こうとしていたはずのパズルはそこになく、意味があると思い込んでいたはずの風景が、ただ、当然のようにあるだけだった。

受け皿としての曲が遥かに大きく、つぎはぎのように見えていた作品が実は一つの絵なのだと感じた。受け入れられたと言ってもいい。これはもしかすると、彼らそのものなのかもしれないと思えたとき、聞こえた気がした。

 

意味があるものだと、最初から思い込んで聞いていたのは僕の方だった。意味があって欲しいと望んでいたのは僕だったんだ。

 

酔った席でドヤ顔になり、誰かに話すネタが欲しかったわけじゃなかった。もちろんそういう顔をしてSNSに書きたいわけでもなかった。ただ存在している、ことだけを、それだけでは許容できないでいた。

 

大勢の中にいる時に、突然感じる孤独感。何人もの人が行き交うスクランブル交差点を歩いているときに感じる疎外感。毎日流れる膨大な情報、スクロールされるたくさんのものの中に、自分のためのものなんて、自分のために呟いている人なんて存在しないと気づいた瞬間。一種の諦めのような感覚かもしれない、どうでもいいって自暴自棄のような気持ちになったとき、彼らの音楽はさらに研ぎ澄まされて聞こえるような気がしたんだ。

これはなんだろう、ある人は「臨死感」だといった。曲全体を覆う死の匂い。ギターのシャウトは、ドラムの捕まえられないリズムは、決して商業的ではない。言い換えれば、誰かにプレゼントするような音楽ではない。誰に聞かせるつもりも、なかったんじゃないか。たぶん、これは彼ら自身のための音楽だ。漂う死の匂いの中に確かに聞こえるのは、彼らが呼吸しようとしている音だった

 

 

君のその狭すぎた肩幅で 誤魔化しきれない理想も

僕ら 全て叫んだ / すべて叫んだ 

 

 

その孤独は説明がつかない、きっと理解ができない、と思うのと同時に。彼らが彼らとしてあるために、CDを出さなければならなかったほどの疎外感。誰かが盛り上がっている、流行りのリズムでは代弁できなかったそのときの圧迫感。雑踏の中、誰も聞いてくれないことが分かっているが故の小さな声。曲の中に作り上げた国、その国が誰にも見つけられないまま----。

 

 

「ーーパレードの中、君は踊る。ーーー」

 

 

きっと存在は自分で見つけるものなんだ。

空を切った手は、ないものだと証明するために振ったのではない。

聞こえない音を聞くために、何百回も同じ曲を聞いたのではない。

 

 

革命が変えてしまうのは

震えるほど綺麗なステップ / 僕たちに明日はない

 

 

 

あなたの音楽が好きなんだ、たったそれだけを、誰かに伝えたかっただけだった。

 

瑞々しい才能と、それを表現する手法がいつまでも湧き出ている。誰にも知られない場所で。


力を加えれば折れてしまうような細い線、繊細で華奢なバランス感覚。脈絡のない一瞬の爆発力、その煌めきはもう二度と見ることはできないんだと、わかっているが故の美しさ。

 

一番はじめの出来事

一番はじめの出来事

 

 

回帰する呼吸

回帰する呼吸

 

 

再生の風景

再生の風景

 

 

デモ音源数枚、ミニアルバム2枚、フルアルバム1枚のリリース。フルアルバム「再生の風景」ツアーの真っ最中にギター高橋が突如失踪し、解散することになるthe cabs。

解散理由は、完全な独断と偏見だが、きっとここまで読んでくれた人には想像に難くない。語弊を恐れずに言えば、売れてしまったからだ。「彼ら、そして僕らの音楽」だけではなくなってしまったからだ。メジャーへの切り替え、CDJの出場。このまま行っても、彼らの孤独が晴れることはなく、勝手に評価を下されてしまう。だからこそ逆説的に「分かり合えない」ことが深まってしまう。そう考えていたとしても、なんにもおかしくはない。誰も責められない。きっと誰も、悪くない。

 

その後、ギターの高橋はオストライヒというバンドで曲を出している。

初めて聞いたとき、イントロでもう分かった。

当時でこそ、cabsのファンが盛り上がったが、元々、聞こえない音をなんとか聞こうとするリスナーがファン層だ。騒ぐでも、押し付けるでもなかった。

だから本当は今、僕はこんな記事を書くことでさえ迷っている。

 


不可解なパズルがハマったときのカタルシス、濃密で難解ではあるが、その奥に潜んでいる彼らの人間性。

その中毒性に時間が経った今でも、知る人ぞ知る美バンドとして友人にthe cabsを勧める。僕のようなリスナーはいるだろう。

ここまで多くのことを語ってきたが、彼らの曲を形成する、様々な形の深部にあるのは、彼らなりの愛情表現なんだと思う。

でなければ、自分のためだけに歌うだけであれば、曲を発表することなんてしないと思うから。生きたいと思った、聴かせたいと思った、そう思う世界が、景色が、作り上げた国の中でもいい、わずかでも一瞬でもいい、あったんだろ。

若いせいだ、と言い切るのは簡単だ。でもその言葉の端に、そう言った後の口の中に、曲を聴いた頭の中に残るものはなんだろう。若い、だけでは説明がつかない何か。臨死感、じゃ括れない生への意志。焦燥感、では感じることができない焦燥感。

 

出来るならば僕も、もう少しだけその世界の中にいたかった。

世界のルールとは無関係に、ただ自由に舞っている絵の、その続きを。

愛してる。