‘すぐに何かに負けて涙流す 君と僕は似てるな’
サカナクション ‘DocumentaLy’と、Mr.Children ‘深海’ に住むシーラカンス。
サカナクション/ドキュメンタリー。
アルバム前半の内省的でありながら苦悩し考え、迷いながらも問い、答え続ける姿は本当に美しい。
独自のポップネス、ルーツを大切にそっと忍ばせる手法は、僕に昔のMr.Childrenを連想させた。特に後半にかけての那由多の広がり、ラスト1曲の光。
聞き覚えがあったこの感覚。
- アーティスト: Mr.Children,桜井和寿,小林武史
- 出版社/メーカー: トイズファクトリー
- 発売日: 1996/06/24
- メディア: CD
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かつて桜井が潜った深海。
誰にも見つからなくとも、泳ぎ続ける意味はあるのか。もし僕がシーラカンスだったら、それを自覚する覚悟はあるのか。深層になればなるほど、考えれば考えるほど光が見えない。
深く、暗い深海、そのアルバムの最後に、桜井は叫んでいた。
連れてってくれないか。
連れ戻して くれないか。僕を。僕を。 / N.14 深海
ポップになればなるほど、大衆に受けようとすればするほど、自分のやりたいことから遠ざかっていく。
人気絶頂、Mr.Childrenを知らぬ人はいなかった時期に、突然リリースされた問題作。
彼の孤独を理解できるものはない。
‘深海へ’連れて行ってほしいのではなく、‘深海から’連れて行ってほしかったのだろう。
答えのない禅問答を何周も何周も回り、死にゆくことにさえ憧れた。
そんな状態でも端的な答えを出そうとした、赤裸々なミスチル。
実際のところ、このアルバムに答えはない。でも、どうにか、なんとかして答えようとしているのが伝わって来る。
僕はMr.Childrenの中で一番好きなアルバムかもしれない。生へのエネルギーで満ちていて、負を掻き消す包容力がある。
対してサカナクションのこのアルバムは靄がかっている。
アルバムの曲が進んでも、何一つ答えてはくれない、いや正確に言えば、わかりやすい答えではないのだ。
数式を解いて出したような正解は、今や本当に数多く存在し、誰もがそうだと膝を打つ、そんな光景よりも、それを見て「見てあいつ膝なんか叩いてるよ」と笑う。その笑ってる姿をみた誰かが「何笑ってんだ、オカシイやつ」と言う。そんな時代なんだ。自分の評価よりも、誰かの声の方が大きく聞こえてくる。監視され、矯正され、自分の行動は、果たして自分が決めた行動なのかどうかすらわからない。
N.8エンドレスも、N.6仮面の街も。このアルバムでサカナクションは時代のムードを代弁しきった。
そのループの最中にいる彼らが最後に言う「僕と君は似ている」という歌詞。
それは違う時代に、桜井が叫んだ「連れて行ってくれないか」と同じ意味だ。
ドキュメンタリーと銘打ったアルバム。
RがLになっているのは、ドキュメンタリーのなかにメンタリティも入れたかったからなんだとインタビューで読んだ。
毎日の日常を過ごしていく、その日々に疑問が浮かんできたとしても、いつのまにか染み込んでいってしまう。最初こそオカシイと感じていた感情も、もうここにないのだろうか。
でも、すぐに何かに負けて涙を流す君は、まだきっとそれをもっているのかもしれない。いや、持っているんだ。涙を流すことで守ろうとしているもの。それは自分の中にある自我だ。
だから、だからこそ、君と僕は似ている、と言い切ることで、アルバムをここまで聞いたリスナーを安心させた。それは誰かに笑われることを嫌っていた、誰かの評価を待っていた自分を変えることになった。自分が息をし始めた。例えばこの歌詞は嘘だったのかもしれない。僕の話は全部嘘だと、彼らは言う。けれどもし嘘だったとしても、この高揚感は無くならない。霧がかかったアルバムで、たったひとつの光。
時代が変わっても、変わらないで受け継がれていくもの。音楽のもつ求心力、ロックミュージックの中にある真実は、たぶんきっとこういうものなんだろう。
シーラカンスが泳いでいる。
その先になにがあるのかはわからないけど、とても優雅だ。
その泳ぐ姿は精悍で凛々しい。